厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

早朝、さんぶんのいちの狼煙

 神妙な心持で目を覚ますと、時計の短針は三分の一のあたりを歩いていた。ちくたくちくたく。短針、長針、秒針、三位一体。仲良さげに見えて、三本の針がぴったり重なれるのは一日たったの二回だけ。ほんとうのことはいつも寂しい。

 以下、とりとめのない思考。

 「繋がっている」って何でしょう?と数学徒に聞けば長々と連続性のお話をしてくれるでしょう。実数上の関数の連続性を担保するためにややこしい定義や公理を並べあげ、しまいには一般の集合と写像に拡張するのでしょう。そしてそれ以上のことは言わない。定義と推論規則から導かれる事実の中に留り続けていなければならないから。

 物理学徒に聞けばそんなものはイデアの世界のものであって、この世に本当に繋がっているものなどありはしない、物事を美しく解釈する上で役に立つ概念の一つに過ぎない、などと返ってくるでしょう。何故なら僕らは繋がっているものを観測したことがないのだから。時間?時間もどうやら量子の不確定性に拠ると不連続なものと言うことができるらしいよ。

 理学は「ほんとうのこと」ばかりを追求しているね。とてもとても寂しくて、だからこそ愛おしくもある。それに比べて情報科学徒の遊惰さときたら、目も当てられない。全く繋がっていないものを繋がっているとみなしてみたり、無理矢理繋げようとしてみたり。始まりから終わりまでずっと虚構なんだねえ。

 その代わり、信念(Belief)が備わっているのだろう。君、意地悪でも妄念だなんて言わないでくれよ。いつでも<物語=虚構>の中で生きていきたいと思うのがやっぱり人間なんじゃないかな。それを否定してしまったら、人間ですらなくなってしまうよ。まぁ…それも案外悪くはないかもしれないのだけど。

 信念なんて曖昧な概念を持ち出さないでくれ、という声があがるかもしれないが、これはちゃんと「様相論理学」という論理学の一分野で研究されているものである。信念を論理的に記述することで人工知能は志向性を獲得し、更なる発展を遂げていけるらしい。僕の専攻ではないから今は深入りした話はできないけれども、遠くない未来触れておきたいね。

 信じることは愛すること。エーリッヒ・フロムが言っていた。愛することは信じること。月のワルツの中で歌われていた。この愛は神への愛なのか?神への愛が一部姿を変えたものなのか?それとも…。シモーヌ・ヴェイユは<神=創造主>からの愛を「未だ嘗て存在したことのないものを存在させること」というように語っている。人間は愛によって存在させられているらしい。贈与された魂。神への愛は、実在性の危うい神を信じるということで分け与えられた魂の一部を再び還元することでなされるのだろうか。

 文字を綴ること、音を奏でること、世界を描くことのなかには愛があるのだろうね。できることならそれを全て爆発させたい。それまでは死ねない。

 話を神や愛から変えて、贈与論的な思考は、構造主義とも関わりが深いので個人的には好みだし、素敵だと思う。人が喜びそうなことをしてみて、笑顔も何も還ってこなくてもいいんだ。長々と待っていれば、きっとどこかで還ってくる「かもしれない」。こんな希望的観測のなかに身を委ね、孤独感を抱きしめながら歩き続けるのが、いまの自分にとっての慎ましやかな幸せ。お弁当箱に大好きだからって具をいっぱいに詰め込もうとしたら、折角の味わいが損なわれちゃうかもしれないよ。みんなで食べた方が、きっと美味しい。

 気がついたら、にぶんのいちのところまで来てしまった。みんな眠るのがへたっぴだ。でも、そろそろおやすみできるかな。