厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

嵐ほどは騒がしくなく,木枯らしよりはやんちゃな

 蛇口をいっぱいにひねり水道水で水筒を満たしていく.じゃ~っ.いっぱいになってくると,こぽこぽと音を立ててかわいいね.みんなみんな心が満たされたときはさ,こんな風にかわいい音で知らせてくれたらいいのに.そしたら,みんな今よりもにっこりできるかな.

 

「ねぇ,灯花のそれ.そろそろ買い換えたら?」

 水筒の蓋をきゅっと鳴らしていると,友達の鈴村さんが話しかけてきた.

「う~ん,でもまだ使えるからな~っ」

 何度も地面に落とした水筒の表面はべこべこにへこんでしまっているけれど,私はこの水筒に愛着を持っているのです.君はこれからあとどれくらいべこべこになれるかな?意地悪なことを考えているけれど,壊しちゃったり無くしちゃったらきっと悲しくて泣いちゃう.

 

 休み時間おしまい.次は数学の時間.起立礼着席.雨上がりの生温い空気が扇風機で送られてくる.ぱりぱりっぱりっ!!二週間前くらいに習字の時間で書いた四字熟語たちが風に巻き込まれてうるさい.特にうるさいのは『森羅万象』,流石です.字面がかっこいいからなのか,数人は万物を掌握せしめん!としていたよ.私はそんな大層な言葉なんて書いてなくてね,日進月歩.ゆっくりゆっくり自分の歩幅で歩いていけばいいのよ,なんて言ってると親がうるさいから仕方なく急ぐふりをしてみたり.そんな急いだって棺桶の数は減ったりしないのに,なんて一人でせせら笑ってみたり.あぁ,数学の時間は先生がずっと黒板とにらめっこしているから退屈だなぁ.退屈なとき教室の壁に貼られてる一か月の献立表を眺めてみたり,学級だよりを読んでみたりするのはみんな絶対やってると思う.まぁ私の席は壁から遠いから見れないのだけども.そんなわけで,でかでかと書かれた四字熟語を眺めている次第です.

 

 お気に入りは『一日千秋』.とめはねがとても綺麗で,ついつい振り返って眺めてしまう.こんな綺麗な文字を書いているのが男の子だというのは,ちょっと憎たらしい.いまは夏だというのに,秋の入った四字熟語なんか書いちゃって.どんな気持ちで書いたんだろうね.わんでい,さうざんどおーたむ!何かを待ち遠しく想い続けているという意味.何事も待ち続けてるだけじゃ駄目なんだよって教えたくなっちゃうな.

 

 きーんこーんかーんこーん.授業おしまい.さっそく彼に直談判.途中,水筒を落としちゃってまたへこませちゃった.そんな大した用でもないからさっさと済ませちゃって,いまは鈴村さんと談笑中.

「あいつ,何を待っているか自分でも分からないんだって!」

「あはは…笹原くんは昔からちょっとミステリアスなところあるからね」

「『君だって,自分が何を待っているのかはっきり言えるのかい?』だって.なんか上から目線で,すっっっごくむかつく!」

「そんなイライラしてまで声かけなくたっていいじゃん.灯花のさ,なんでも白黒はっきりさせないと気が済まないところ,直したほうがいいよ」

「むぅ」

 まぁ鈴村さんの言う通りかもしれない.でも自分の気持ちに蓋をし続けることを礼儀や美徳とするにはまだ若すぎると思うのです,私は.そんなことはさみしさと和解し終わった大人たちが勝手にやればいいのです,ええ.私は私だし,誰にもそのことをとやかく言う権利はない.

 

 さて,掃除の時間.いまだけ雑巾掛け世界記録保持者!という気持ちで廊下を思いっきり駆けていたら突然銀メダルの選手とエキシビジョンマッチが始まった.勝ったけれど私だけ先生に叱られたのでむすっとしている.試合に勝って勝負に負けた,世知辛い世の中じゃな.男子は箒をバットに,雑巾を球に見立てて野球ごっこをしている.当然怒られてたけど,ちょっと羨ましいかも.椅子の下の洗濯ばさみに雑巾を干して,お疲れ様だよ.

 

 せんせいさようなら.みなさんさようなら.

 

 窓の向こうに映る放課後の校庭が夕焼け色を跳ね返している.白いチョークで書かれた日直当番の名前も夕陽色に染まっている.私の白い肌も夕陽を浴びてほんのりと熱を帯びている.あぁ,そろそろ私も帰らなきゃ….再び窓の向こう,体操着を土埃で汚した生徒たちの真っ黒な影が蝋燭の灯火のように揺れ動いている.私たちは肉体を蝋にして影という灯火を煌めかせているのかもしれないね.夜になってしまえば見えなくなってしまうような影を,どうして私たちは必死になって守っているのだろう.死んでしまえばきっと何も残らない魂を,どうして.私は夜を待っているわけではないけれど…やっぱり私も何を待っているか分からないんだ.待って待って待ち続けて,やっとの思いで出会えたってみんな最後にはさよならをしなきゃいけないことが,とても苦しい.私はあと何回,さよならをすればいいのだろう.夕陽を浴びた教室の扉は重たい.