厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

"不在"という距離形式

 私はいつも自身の物理的な死について考えている.不在になるとは死ぬことを指すのだろうか?とにかく私は不在でなくてはいけなかったような気がするのは確かだ.しかし何に対して?少し前に読んだ本の中に次の文を見つけた.

私はその瞬間に私の思考を集中した,そして私たちのあいだに真のかかわりはなかったにもかかわらず,私は自分が,たぶん一個の生きた存在にふさわしかったであろうような期待とか,用心とか,疑いとか,親密さとか,孤独などによってそれと結ばれていると感ずる空間の印象を抱いた――その生きた存在とは,人間存在か? いや,まだ人間ではなく,よりいっそうむき出しに晒され,より保護されていず,それでいていっそう重要かついっそう現実的な存在だ.だがこの空間が私にとって異質のものであったように,私を結び付けているものは私にとって未知であった.私はただ単に自分がそれに敬意を払わねばならぬと知っていた,いやそのことさえ,私は知らなかったのだ,ほかでもない,私はたぶんそれに敬意の荒々しい不在を払わねばならなかったからだ.

≪私たち≫

私としては,どんな対価を払われようともこの言葉の動揺を利用すべきではなく,その言葉に加担すべきものでもない,という感情.だが私は,軽やかさの幻影にひしと寄り添って,陶酔の狭小な頂上に身を保っていた,苦痛の歓喜の感情を抑制して,かつそれを抑制しないで.それは軽やかで,喜ばしく,奇跡的な軽やかさであり,聞こえるというよりはおのずと見え,きらきら光る球体で,自らの表面と混じり合い,絶えず成長し,その成長の中にも静かな球体だった.いささかも混乱してなどいない言葉の動揺だ,――"それ"が黙すとき,"それ"は黙しているのではない.私は自分を"それ"と区別でき,"それ"のなかに自分の言うことを聞きつつも"それ"の言うことを聞くことだけができるのだった,"それ"ははてしない言葉であっていつも≪私たち≫と言っていた.
 この言葉からほとばしっていた一種陶酔めいたものは,この≪私たち≫から由来しており,その≪私たち≫は私からほとばしり,空間がそこに閉じ込められはじめていた部屋のはるかかなたで,私をして,私がその起点をあそこ,どこか海のほうに位置させていたあの合唱の中に自分を聞くことを余儀なくさせているのだ.
 あそこにこそ私たちはみないるのだった,私たちの合一という孤独のなかに直立して,そして私たちの言うところのものは私たちがあるところのものを絶えずほめたたえているのだった.
 ≪私たち≫――は避難所である.

なぜおまえはぼくに信じさせておくのか,もしぼくがそう欲すれば,おまえが目に見えるものになりうるだろうなどと?なぜおまえは,ぼくのすべての人たちから隔てる.親密さの言葉のかずかずでもってぼくがおまえに話しかけるにまかせておくのか?おまえはぼくを保護しているとでもいうのか?ぼくを監視しているとでもいうのか?なぜおまえはぼくを意気阻喪させないのか?それは容易だろうに,なにか或る合図,もっと確固とした圧力,そうすればぼくはすぐにもこう言うだろうに――「よかろう,おまえがそう望むのだ,ぼくはあきらめるよ」と.だがおまえはただそこにいるだけだ,そしておまえのところまでいく言葉は壁に向かっていくことになり,その壁がそれらの言葉を,僕がそれを聞くようにぼくに送り返してくる.壁,ほんものの壁なのだ,ぼくの住まいを限り,それを一個の小房に,万人のただなかにおける一つの空虚にしている四つの壁だ.なぜか?ぼくが演じるべき役割はなになのか?ぼくはなにを期待されているのか?ぼくは静寂のなかに入っている,入ってしまっていたのではないか?いったいなにがぼくを静寂から引きずり出したのか?いったい静寂は破壊されうるであろうか?そしてなぜ,それが破壊されたならば,ぼくたちはそれのまわりに,ぼくたちが思い出せないあの瞬間,あの冷たい刻を見守り続けるのだろうか?それに,すべての人たちが見守っているというのはほんとうだろうか?たぶんたった一人だけが,たぶんだれも,たぶんぼくたちはなにものをも見守っていず,たぶんぼくたちはみないまだに静寂のふところに抱かれているのだ,ぼくたちが絶えず行き来するあそこに,つねにいっそう不安定に,いっそうもじもじと落ちつきなく,だがそれでいて,それは深い憩の呼吸であるのだ.

忘却,死,永遠

思い出すことと死ぬことが――たぶん死んでいることが――一致するような一瞬がつねにあると.それは同じ一つの動きであるだろう.純粋な,方向のない思い出であり,そこではすべてが思い出と化す.記憶から死ぬためにはそれを自由に手に入れることができさえすればよい大いなる力.だが自由に手に入れられえぬ力だ.そのとき自己に向かって想起するためのうまくゆかない試み,しりぞき,忘却を前にしてのしりぞき,そして思い出す死を前にしてのしりぞき.

 

これらをまとめて,とはいえ抽象的な要約なのだが,私は次のような心象を抱いた.
不在でなくてはならない理由:≪私たち≫の高尚さに安寧を求める集団を,無遠慮に傷つけうるから.
何故傷つけてしまうのか:ある種の個人が≪私たち≫を前にしたとき後述する壁が現れるから.
壁とは何か:実在性の不透明さがもたらす分離の象徴であると同時に,強い誘引力をもつ,相反する性質を兼ね備えた生物的な概念.
不在でなくても構わない場合はないか:≪私たち≫からは不在であることを望まれるが,壁をもつ個人間ならば不在であることに固執しなくて構わないかもしれない.
忘却:見ることと話すことの中にある.見ること,話すことを忘れること.話すこと,汲み切れなかった=忘却された言葉を汲み切ること.自身が忘れられていること,自身が忘れていることを整理する.また,同一化幻想,永遠の憧憬=幸福の幻影に対する反抗.

 

私にとって不在は死を意味するものではないかもしれない.不在という形式も他人との距離感として認められる日は来るのだろうか.

モーリス・ブランショ「Le Dernier Homme」「L'Attente, l'oubli」より引用.