厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

洗濯機

 夜に散りばめられた宝物を探しに行こう,そう決意した瞬間にはもう,僕の瞳は窓の外の電灯を貫いているのでした.宝物といっても,決して煌びやかなものであるとは限りません.仄暗い灯火の落とす影の中に融け込もうとしたことのある人なら,誰だって口を揃えてそう話すでしょう.ひとたび自由律を基調とするスキップを刻んでしまえば,僕たちは夜の一部に融け込んでしまうのです.さて,今夜はどこにいきましょうか.

 

 ひんやりした風の扉を何枚も潜り抜けていると,ふと,いつから「深夜の通行証」なんて持っていたのだろう,という疑問が浮かんできました.誰かから受け取った記憶はありませんし,もちろん,購入なんかしていませんでした.最近では「深夜の通行証」の偽装で生計を立てている人もいますが,彼らの作る通行証は粗悪品で,殆どの人に対して持続性をもっておりません.有効期限付きのパスポートで見えるのは,マッピングされた他人の映像に過ぎず,掲示板に従いながら眺める絵画となんら変わりありません.美術館に訪れるとき,僕たちは解説を求めているのでしょうか?もしそうだというのであれば,わざわざ深夜に飛び出す必要はないのです.

 

 先日の天気雨が作った水溜まりには,光輝く看板たちが映り込んでいました.その中でもひと際強くネオンの光を放つ看板は,僕の心を強く惹きつけていました.いったい,なんのお店なのでしょうか.気が付けば僕の革靴の前半分は,天然由来の鏡を踏みしめているのでした.優しく頬を撫でるそよ風が水面に波を走らせるので,何が書かれているのかなかなか読み取ることができません.風が吹き止むのを祈りながら悪戦苦闘していると,一つ,凡庸なアイディアが浮かんできました.光源を探れば,この不毛な作業からも一瞬で解放されるだろう.こんな簡単なことにも気が付けないなんて…準備もなしに飛び出してきた僕は,少し微睡んでいたのでしょうか.いや,手紙入りの漂流物を海岸で待ち続けてしまう僕のことですから,期待している時間のなかに身を潜めていたかっただけなのかもしれません.ブランショも「期待・忘却」のなかで,形而上学的欲望について説いていたのを思い出しました.そして,期待の一つの形式である,孤独についても…誰かがこんなことを言っていたっけ.

「孤独とは,幻を求めて満たされない,渇きのことなのである.」

全くその通りだろうと僕は頷きながら,しかし期待するのはやめにして,派手なネオン管の在り処を探し始めるのでした.

 

 不思議なことに,目当ての看板を見つけることはできませんでした.けれども,水面を見返すと,そこにはやはり例の看板らしき光が見えるのでした.この不可解な現象に混乱した僕は,きっと夢でも見ているのだろうと思うことにしました.いまにこれよりも可笑しな出来事が始まるに違いない.そう考えていましたが,ピンク色の象が空を飛び回ることもなければ,未確認飛行物体が人を連れ去ることもありませんでした.依然として,この水溜まりにのみ神秘が潜み続けているのでした.物理法則に反して存在する看板を前にしながら驚きと興奮を隠せずにいる僕は,鞄の奥深くで眠っていた半透明のフィルムケースを取り出して,人でも殺すような慎重さで水溜まりの水をすくい上げました.この際何故存在しているのかを考えるのは後回しにして,この水溜まりの性質を応用して何ができるかについて熟考するほうが有益かもしれない.有機物には有効だろうか,有効だとしたら何処まで有効だろうか,精神的領域にまで染み渡るものだろうか.だとすれば,この"ないものをあるように見せかける作用"は,人によってはかなりの価値を持つかもしれない.成分を分析して大量製造に成功すれば一儲けできるかもしれない.夢想家とは,常に理論なんかそっちのけで行動に走る生き物ですから,急いでこの偉大な作業の計画に取り掛かろうと考えていました.

 

 奇妙な使命感を燃料にして,水溜まりに背を向けて歩き出そうとしていました.ところが,なかなか歩き出せません.感動のあまり,ここまでどうやって歩いてきたのかさっぱり忘れてしまっていたのでした.蝉の抜け殻のようにその場を離れられなくなった僕は,深夜の通行証を取り出そうと鞄のなかを漁り始めました.深夜の通行証には散歩するうえで優れた機能がいくつもあって,そのなかの一つに歩いた道を記録してくれる,というものがありました.これはもともとは,街中に散らばっている電柱を自動で記録していくだけの機能だったのですが,十分なだけのデータが集まった結果,電柱を元に現在地を自動追従する機能に変わったのでした.これがあれば歩き出せる,そう考えていましたが,なかなか見付かりません.水溜まりの水を勝手に拝借してしまった罰でしょうか.歩き出せなかったのは感動からではなく,深夜の歩き方を忘れてしまっていたからなのでした.僕は急に弱気になり,フィルムケースのなかの水を戻せば通行証も帰ってくるのではないかという,安直な希望的観測を脳裏にちらつかせながらも,結局それをすることはありませんでした.ケースを取り出そうとしたときに,水溜まりのなかへ落としてしまったのでしょうか.行く当てを失った僕は,仕方がないのでゆっくりと鏡の中へ足を踏み入れていきました.

 

 鏡の内側へ入り込めたことは,もうそれほど不思議には思いませんでした.むしろそれが必然であったかのようにも思っていました.僕の体積の分だけ溢れた雨水が,影に意味を与えていく….始めは僕の背の半分ほどの球体でしたが,緩やかに回転を始めると縦に伸びて…最後には空き缶のような形状に変わり果ててしまいました.あれが僕の新しい容器になるのだろうか?しかし,空っぽの容器は風に吹かれると,冷たい金属音を鳴らしながら何処かへ転がってしまいました.胸に穴が開いたような空虚感を感じた気がしたけれども,すぐにこれは否定できました.なぜなら,ここにいる僕が穴の中身そのものなのですから.そのことに気が付くと,恐らく空虚感を抱いているであろう空き缶に対して申し訳なく思いつつも,引き攣った微笑みを浮かべてしまいました.きっとあの看板も,この水溜まりに飛び込んでしまったのだろうね.そして僕の容器と一緒で,影は逃げていってしまったのだろう.だからあっちでは何処にも看板が見当たらなかった.でもそろそろこのかくれんぼもおしまいさ.不敵に光り続けている看板のほうへ歩き出そう.

 

 看板はほどなくして見つかりました.

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真夜中コインランドリー

 ここまで来てようやく,僕は影に脱ぎ捨てられたのだと悟りました.ああ,僕は自分の影をより良く映すために,服装に拘ることはあっても,僕自身をより良く映そうとすることはなかったのに.美しい影に隷属しているのが,僕の意識なのであり,影が僕に付随しているのではありません.どれだけ着飾ってやっても美しさを保ち続ける影は,幼少期からの大事な友達でした.

 

「邪魔だよ.」

 

 後からやってきた客に押し退けられ,僕は洗濯機の中に押し込まれてしまいました.洗濯されることを,僕も少しは望んでいたかもしれない.べったりとこべりついた過去を洗い流してくれれば,影の方だって戻って来るに違いない.喪失感を押し殺しながら,僕は僕と共に泡に包まれている影の主たちを抱きしめ,手を放し,振り返らない.濁った飛沫に身を任せていると,帰り道ももう思い出せないぐらい眠たくなってきてしまった.過去を洗うことも,未来のための帰り道を思い出すことにも疲れてしまった.僕は何処へも行けなかった.通行証なんて,そんなものは誰一人だって持っていなかった.僕は何も持っていなかった.僕はただ,この大きな渦の中で絶え間なく踊らされ続け,時間が来たら止まる,それだけ.影はもうもどらない.時間も,言葉も,記憶も,何も戻らない.僕は何処へも行けなかった.