厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

夜の誘い

 夕陽の差し込む放課後の教室,僕は授業の予行演習をしていた.普段読み飛ばしているコラムに目を通すと,そこにはアポロニウスの円についての解説が書かれていた.軌跡と呼ばれるもので,これは少数の条件の下で定まる点の動向が完全に決定できる,というものだ.軌跡に関する話題としては最も初歩的な内容だろう.さて,僕らの存在しているこの宇宙もまた,僕らに対して存在者として少なくない条件,法則を与えている.ケプラーの法則によれば,惑星は太陽を中心とする楕円の軌道に従うし,返報性の原理によれば,僕らの行動はちょっとした贈与にすら返礼の義務を感じてしまうように出来ているという.宇宙や人間を観察して普遍的な法則を見つけ出すことにはあまり興味が湧かないが,単純化された抽象の花園,閉じられた世界の内部でのみ通用する法則を探求するのは好きだ.だから僕は数学を好んでいる.

 

 とはいえ,いつも閉じ籠っているというわけでもないんだな.僕には夕陽の神秘を解き明かすという使命が与えられている.夕陽に潜む法則を抉りだす時間は,花園の中心で独善に浸る時間と同程度かそれ以上に尊い.夕陽の映える空間は幾つか存在するが,教室はそのなかでも上質な空間だ.そう確信しているから僕は教員をやっているのであって,教育はただの暇つぶしだ.人生とは,死ぬまでの長い長い,暇つぶし.だがあんまり暇なものだから,夕陽の謎を解き明かせ,という声に従ってみるのも悪くない.生きる理由としては,それで十分.そしてここは放課後の教室なのだから,僕がここにいるための条件としては十分なのだ.放課後の教室‥‥.放課後の教室,と言葉にするたびに,なにか自分の奥深くから溢れ出してくるのを感じる.息の詰まるような焦燥と,それに付き纏う奇妙な解放感.後戻りできない選択の連続で構成されている僕らが,内省的な態度に没頭できる空間.そんな神聖な空間の外,窓の向こうには片付けてもらえなかったボールが転がっていて,その手前では支柱で括り付けられた朝顔たちが首を倒して泣いている.年をとると置き去りにされる側にばかり同情してしまってよくない.朝顔は昼前にはしぼむし,早く生まれればそれだけ早く死ぬ,それだけだ.

 

 『夕暮レ時ノ空間別反抗係数ニ関スル一考察』

これは僕がずっと前から使っている手帳の名前だ.そう,名前.僕は手帳をもっている人を見つけると,まず何よりも先に手帳の名前を聞くようにしている.何故って‥‥,そりゃあ君,名前を与えるという行為は痛みを伴うものだからね.命名の瞬間,僕らは身を千切る思いで言葉を捻り出すわけだ.自分の分身体を生み出すようなこの行為は愛がなくては不可能だ.肌身離さず持ち歩いている手帳に名前をつけていないだなんて聞いたら,僕はきっとその相手を蔑視するようになるだろうね.人間の場合は命名の義務が存在するが,日頃から名付けること,つまり愛するということについて考えていない人は,きっとこの義務の存在を疎ましく思っているだろう.とはいえ,過剰に個人の期待を押し付けるのもどうかと思うが.その点では僕の命名は少し一方的過ぎたかもしれないとは思っているけれども,手帳の方では満足しているようだから問題ない.この手帳も初めの方には,名前通り夕暮れ時の空間ごとの,人間の反抗係数を計算して記載してあったのだけど,今は放課後の教室のことだけでいっぱいになっている.思惑に反して成長する子供は,眺めていてとても愉快だ.けれどこの精神,自分のこの感情が純粋な愛ではないのかもしれないようにも思っている.

 

 昔,「たまごっち」というゲームがとてもよく流行った.たまごっち,と呼ばれる生物を育てる,育成ゲーム.僕は結構レトロ趣味的なところがあるので,目的もなくハードオフに足を運んでみることがある.ジャンク品コーナーで大量に見かけるたびに,自分の子供にも同じことをしてしまうのではないか,と不安になることがある.きっとそんなことにはならないと思っていても,未体験の事象に胸を張って肯定的に答えることは,僕には難しい.何だか夕陽から話がそれてしまった.僕は僕の居場所へ帰ろう.

 

 再び,教室に目を配る.空いた座席が綺麗な直線をなしているから,夕陽を浴びた机の脚の降ろす影も当然美しい.机の脇には持ち帰り忘れた給食袋や,鋏やホッチキスなどを詰め込んだ文房具袋がぶら下がっている.袋からはみ出した鋏の先端は焦燥の光線を跳ね返している.アスベスト製の仄暗い天井は,そんな行き場を見失った微かな光ばかりを集めて夜を模倣しようとしているのだ.宇宙の神秘の残滓はいま,この教室の天井が定める軌道に従いつつある.素敵だ.素敵だけれど,こんな特別な夜を迎えられるのは僕一人だけで,思えばいつだってたった一人きりだった.僕は存在と存在とが夕陽によって融和し新たな価値が生じ始めるこの至極の瞬間を,ずっとずっと,誰かと共有したかったのだと思う.認識が液体のように蕩け出した後に混ざり合って気化して凝固して‥‥後に残った世界で一緒に住んでくれる人を探し続けていたのだと思う.

 

 『夜に融けましょう』

 

 夢の中でそう聴こえた,ような気がした.夕陽はもう沈んでいて,教室はどこかへ消えてしまっていた.僕にも夜がやってきたみたいだ.ショパン夜想曲を流しながら,僕は夜の海をゆらゆらと漂っている.