厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

寝起きのroutine

 昔言われたことをずっと引き摺っている.

順序:1

 毎朝,目を覚ましたとき,自分が世界を認識できているかどうか確認している.正常に世界を認識できているかは重要ではない.「自分ではない何かが世界の認識を試みている」という感覚を抱いていないかを確認している,と言ったほうが正しいのかもしれない.

 世界と対峙しているのが本当に自分自身であるか?という疑問に,はいかいいえでは答えられない自分がいる.常に世界と向き合っているかと問われれば,恐らくそうではないだろう.しかし,ある瞬間は向き合っているだろう.そして,そのある瞬間に世界と向き合っている存在が,私なのだろう.それを信じられている間は,辛うじて世界と繋がっていられるのだと思う.自分が自分であることに疑いもせず生きていける人々が少し羨ましい.

 まとめると,解離性の異常が発生していないかを寝起きに確認している,と言える.

順序:2

 辛うじて世界と自分との通路の存在を認められたなら,今度は統合性の異常が発生していないかを確認している.まずは主体が誰にあるのかを明確にしておかなければ,統合性の問題を考えても二度手間になる可能性があるのだから(解離性の異常が生じていれば,統合性の異常の有無を確かめる前に異常だと判断できるため),解離性の確認から統合性の確認に移行する順序には問題がないはずである.

 このように順序立ててはいるものの,この点に関してあまり不安を抱くことはない.常に瀬戸際にはいるが,彼岸に足を踏み入れることはないと考えている.私でない誰かが私の内部に新しく生じる不安はあるが,私が私でなくなるといった不安はあまりない.ならば統合性について確認する必要はないのではないか?という疑問の声も聞こえてくるが,必要はある.

 それは,自分自身を「統合失調型パーソナリティ障害(Schizotypal personality disorder)*1:以下,スキゾタイパルと呼ぶことにする」ではないかと未成年の頃から疑っているためである.まず大切なことを二つ.

 

 スキゾタイパルと統合失調症は異なるものです.

 スキゾタイパルとスキゾイドも異なるものです.

 

 インターネットで検索すると,これらが混合して語られている場合が多々あり,誤解を避けるために書いた.とはいえ統合失調症とは似ている点もあるため,メンテナンスの感覚で統合性の問題を考えるに越したことはない,と思っている.スキゾタイパルと統合失調症と誤解されるのは本当に困るのでもう少しだけ言葉を添えておくと,両者の違いは「高々関係念慮であるか,関係妄想か」という点にある.具体的に説明するのであれば,例えば,横断歩道の前で信号が切り替わるのを心の中で期待した場合を考えてみてほしい.このとき,スキゾタイパルの関係念慮は「あ,心の中で期待したから信号が変わったのかな.でもまぁ,そんなことはないか…」というように,自身の想像を信じて疑わないものではない.それに対して統合失調症の関係妄想は「心の中で期待したから信号が変わったんだ!」と,自身の想像に疑いをもたない.占いの結果を娯楽として楽しむか,真実として呑み込んでしまうか,というような違い.

 ここだけは誤解されたくないのです.勿論,思考を盗み見られているだとか,他人から支配されているだとか思うこともありません.そういうことが技術的に可能なのかもしれないと仮定して,想像を張り巡らすことはありますが.

余談

 私は占いが娯楽として楽しいものだと思っているし,人前では信じ込んでいるふりをしているが,本当に信じているわけではない.宗教的なものの放つ魅力に惹かれはするが,入り込みはしない.ここまで伝えなければ自分が異常でないことを信じてもらえない,そのことがとても虚しい.誰もがタネを知っている手品を見せているような虚しさがある.夜空を眺めて星々を繋げる星座遊びも,そうは見えないと言ってしまえば「そうだね」の一言を返すしかなくなってしまう.無意味になってしまった星座早見表を片手に,最後は私一人で土手に座りながら泣いている.

 私は私一人で大事にしてきた感覚がありますが,あなたに合わないのであれば壊さずに離れてくれると嬉しいのです.それを私は引き止めたりしません.そもそも,他人は宇宙人みたいなもので,どうしたって理解できない領域を持っているのですから.では,そんな宇宙人たちのなかでどうやって生きていこう.最果タヒさんの書いた「渦森今日子は宇宙に期待しない。」には,そのヒントになるものがあるかもしれません.ポップな文体ですが,私はとても好きです.

順序:3

 解離性,統合性に異常がないと思えた場合,次に確認するのは境界性,つまり対人関係について考える.ここが一番精神を疲弊する.以前の自分は他人との境界線が曖昧で,どこまでが自分の問題で,どこまでが他人の問題なのか判断できていなかった.同時に,自分が何を受け入れ,何を受け入れないかを決めていなかった.自分の言動で他人が不快な思いをする可能性を極限まで減らそうとして,自分に嘘をつき続けてしまっていた.まずは自己が確立していなければ,他人のことを考える余裕も生まれない.思いやりの気持ちは,自己犠牲的に生み出すのではなく,予め蓄えていた余剰から明け渡すものだと考えるようになってから,他人の領域に踏み込まなくなった.

 自分のできる範囲で他人のことを考えればいいし,過剰に求められたら断るのも必要だと思えるようになったのは,成長なのかもしれない.

おわりに

 以上,3つの工程を済ませてようやく一日が始まる.

 

 昔言われたことをずっと引き摺っているが,自分や他人と向き合う際に考えなくてはならないことを理解するきっかけにはなったと思う.