厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

手続き

 誰かの独り言を目にしてから,少し前から考え続けている.

後出しでも先出しでも,あまり良い結果をもたらさない何かについて.

それと,どうでもいい大事なこと.

 

 先日,フキハラ(不機嫌ハラスメント)という誰も使っていなかった言葉を見かけた.名前が付いていないだけで,これに苦しまされていた人は多かったと思う.名前をつけるのは,気に入らないものを自分一人では気に入らないと言えない弱さがあるからだろう.票集め,同調圧力のために用意された言葉に翻弄されるのは嫌だが,まぁもう少し不機嫌について考えてみよう.感情をプログラミングしよう.

 

 まず,不機嫌の後出しについて.

 伝えられた側からすれば嫌な思いを後から言われてもどうしようもない,面倒だ,というのが本音だろう.そうだったんだね,と言ってくれる人はきっと少ない.他人はあなたの良き理解者ではない.では不快になった瞬間に不満をぶつければ良いのか?相手に明確に悪意があればそれでもいいかもしれないが,そうではない場合,仮にぶつけたとして何か解消されることはあるだろうか.自身の思惑との違いを直接相手にぶつけるのは,とても虚しい行為だと思う.大事な相手なら言い方を工夫して伝えたい.

 日頃から,相手の中にある自分が持つものとは異なる感覚を愛することが大事なのだと思っている.そして,それができるような人と関わりたいと思っている.愛されたいし,愛したいんだね.一年くらい,自分には他人を愛せないのかと本気で悩んできたが,相手との関係も大事なのかもしれないと思えるようになってきた.自身との共通部分の大きい他者とつるむのはとても楽だが,異なる価値観を理解しようと努める心を失うと,ちょっとしたことで他人との溝が広くなってしまう.例え不快感を抱いたとしても,一呼吸して考えられたらいいよね.

 

 次に,不機嫌の先出しについて.

これは簡単に楽になれる一つの方法だけれども,やめたほうが良いと思う.

「私はあなたの何らかの言動で不機嫌になることがあるかもしれません」

と伝えられて,まず良い印象を持たないだろう.誰だって人と関わればどこかで不快な感情を抱く瞬間があるのだから,自明なことを説明しても困惑させてしまうだけだと思う.

 

 前提として,自分の機嫌くらいは自分で取れるようにしなければいけない.たとえ,何らかの疾患を抱えていてもそれを言い訳にしてはいけないとも思う.社会や,他人と言う名の社会は,ほとんど言い分を聞き入れてくれないし,何時消えるかも分からないあやふやな存在なのだから.

 

 私の不機嫌の処理の仕方.

 もともとあんまり人に期待していない,期待され過ぎると人は息苦しくなるらしいから….人は他人のことを言葉ほど好きにはなれない.そして,人は必ず死ぬのだから,落ち込むくらいなら笑い話にしてしまった方がいいだろう,その方が空間も和むだろうと思ってしまう.

 

 私は自分一人が不快な感情を抱き,限界だと思えば,必要なこと以外は何も言わずに空間を離れていくと思う.それが一番事を荒立てずに済む方法だと思うし,大事なものは大事にしたまま持っておきたいから.離れていく人がいれば,多分それは私に許容不可能な何かを感じたのだろうから,それを引き留めたりはしないし,逆の立場で引き止められても,私には何もできないと思う.不機嫌な感情は煙に巻いて宙に溶かしてしまえばいいだなんて,薄情だろうか.

 

 私は私で自身の攻撃性を自覚しているから,望ましくない状態にあると思えば夜を更かして散歩をしてみたり,子供の頃によく遊んだゲームをもう一度遊んだり,配信をしてみたり,時には酒を飲んで忘れてみようとしたり工夫しているが,そういった自分の機嫌の取り方についてまで規制を入れられたらあっという間に限界になってしまうと思う.

 

 本当に大事な人なら,不機嫌にさせない努力もきっとすると思うし,不機嫌になっているのを感じて行動を改めると思う.そういう人たちと関わるために,自分も変わっていきたい.