厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

矯正

 DPを3か月ほど続けてきたが,そろそろ運指矯正を意識していきたいと思う.身につけたいと思っている運指は…

  • 親3親5 階段譜面のために
  • 中3   画面中央にノーツが密集する譜面に対して有効
  • 中6   4567に人親中薬を対応させると窮屈にならなくなる

親3親5は少しずつ繰り出せるようになってきているが,中指の移動はまだ未知の世界.練習できそうな譜面を探すところから始めなければならない.もしくはBMSでハノン譜面を作るか.

 

 運指の矯正は意識改革から始まる.この感じは駄目だと,感覚を脳が記憶する.突然だが,音楽ゲームは僕にとって人生であり,これがなくては生きていけない.苦笑されるかもしれないが,事実だからしょうがない.そんな無意味なことを続けて何になるのだと問われても,死の前ではすべて等しく無意味なのだから,とそれ以上のことを言うのは性格が悪いので言わないでおく.

 

 逆に,人生を,最期の一回のプレーに見立ててみるのはどうだろう?君はニヒリストだねと言われたことがあるけれども,もしそうだとしたら楽観的ニヒリズムの方だろう.ハイデッガーの言うところの投企じゃないか,という人もいるかもしれない.構造主義的な世界を好むくせに,僕の根っこは実存主義にあるのだなあ.

 

 この生は,ある一曲を演奏するためにある.そんな感覚の裏に隠れているのは,マラルメの次の言葉なんだと思う,きっと.

世界は一冊の美しい書物に近づくべくできている

とても好きな言葉だ.この言葉を思い浮かべるとき,頭のなかの地球儀が勢いよく回り始めて,遠心力で薄い円状にひきのばされ,その上に言葉を飾っていく何者かの存在を意識せずにはいられない.書物に近づくためには,各個人がより多く生きることが必要だろう.だが,書物という縛りがある以上,言語のもつ構造に適応できるように自身の認識を矯正していかなければならないのも事実.これを疎かにすれば,書物ではない何かになり,美しさ云々の話ではなくなってしまう.前衛的ではあるかもしれないが,あまりに独善的過ぎると芸術足りえないものに変貌する.

 

 さて,演奏する以上,全身がその楽曲と調和していなければ,自動機械に弾かせるのと変わらないだろう.凄まじい技術力を要する音楽が聴きたければ,「機械」に任せてしまえばいい,とさえ思っている.しかし人は「人間」の演奏に感動する.単に技術力のみが評価されているわけではなく,表現の豊かさを前にして驚いたり泣き崩れたりする.音楽ゲームに表現の豊かさなんてあるかよw,と笑う人もいるかもしれないが,例えば弐寺ならピカグレの判定発生フレームは2F*1であるから,表現のための庭は十分用意されていると思っている.僕は調和するためなら矯正だって厭わない.僕が最期に弾くのは,ToyCube Pf.(RX-Ver.S.P.L.)だ.

 

 というわけで,人生の調律のための矯正について考えていこう.思考矯正.さぁ,己のなかに感化院を打ち建てよう.僕は,穏やかな日常が(本人にとっては)些細な一言で簡単に崩れ去ることを知っている.崩壊させてばかりだったが,そろそろ見つめなおさなければならない.自己批判が足りていなかったと悟り始めている.自覚できていないことを自覚しなければならない.どうやら人間には,空間の秩序を保つための機構が備わっているらしいのだが,僕にはそれがない.秩序を保つために何が必要かを考えることまではできるのだが,最も必要な「何か」が欠けているような感覚がある.それがあったら良かったのにと思うけれど,それがあったらきっと僕ではないのだろうと思う.僕の公理系とは矛盾する何かを,僕はいつも求めている.

 

 どうしようもないのだろうか.諦められない気持ちで人を待たせるぐらいなら,と言いかけて,そうじゃないだろう,と思い留まることの連続.僕は関係の革新的な在り方を模索しつつ,旧来的な慎ましさも尊重している.脳内で新旧駆け巡り,曖昧なままにし続けるのはやめにしたいが,難しい.とにかく,意識改革に繋がりそうなことに取り組もう.運指矯正.

 

訓練その1 言葉にしない.

 もう1600字近く書いておいて,一言めが「言葉にしない」.ギャグだと思われても仕方がないな.ちなみに,これは多義語です.思うことはどうしたってやめられない.それを形にしない努力がもしかしたら大事なのかもしれない.我慢.自分では我慢ができているように思っていたが,我慢するという行為の実際を知らなかっただけなのかもしれない.

 

 ○○なのが当然である,常識である,といった考え方を極端に嫌う気質が,これを難しくしていると思うので,最近はなるべくP⇒Qを実践しようと試みている.たとえば,食べ終わったあとは食器を洗う,読み終わった本は片付ける.他人のは平気なのだが,自分のとなると途端に精神リソース消費量が増大するのはバグだと思う.みんなが当たり前だと思っていることをやっていくことで,言葉にしないのが当たり前だと思えるようになるのかな.

 

 当然とか,常識とか,そんな言葉を使われると,大きな構造が僕らに何かを諦めさせるようで,とても息苦しくなる.言葉にしてはいけない.

 

訓練その2 短期間のスケジュールを考える.

 長期的な計画を立てるのは得意です,死ぬ瞬間まで視野に入れているので.やっぱりギャグかもしれないな?一方で短期間のスケジュールを考える癖はあまりなかったように思う.受験のときと,DP上達計画のときぐらい.どちらも幾つかの長期的なゴール(通過点)はあるのだけれども.

 

 短期的な計画と,長期的な計画の何が違うか,考えたことがありますか?僕はいま考えました.数字・数値化,要は客観的に認識できるかできないか,だと思っています.短期的な計画である受験とDP上達計画は,数字の増減で客観的に成果を認識できます.それに対して,長期的な計画の果てにあるものは(正確には,長期的な計画の果てに定めたくなるものは)客観的に認識できない,感覚的なものが多いような気がします.例えば弐寺だって,皆伝は通過点だと認識している人が多くなってきていて,みんな「上手くなる」ことを目標にしているんだと思うんです.それに対して,大学に合格するのだって通過点でしかないはずなのに,本来の,学問に対する関心を失って就職予備校と化している現実は悲しいかな.命の賞味期限は,意外と早いのに.

 

 僕は僕だけの認識がほしくてやっているんだよ.言葉にしてはいけない.

 

 世間で立派だと言われている人々は,なんだか数字の増減を疎かにしていないような気がする.立派かは分からないけれど,凄いなと思う.このブログで一番最初に書いた記事では自分の統計学嫌いについて述べたが,数字の増減に関心がないのも関係しているのだと思う.統計学を「使いたい」という感覚が気持ち悪い.言ってしまおう.統計学も,情報科学も悪だよ.そして,もしかしたら,そんなものを専攻している僕も.

 

hydroyourseason.hatenablog.com

 

 なんだか,矯正しようとすればするほど小我にとらわれてしまうな.僕には無理なのだろうか?この前,「人間の建設」という評論家と数学者の対談集を読んだ.小我,無明といった仏教用語が何度か現れた.なんでも,小我,無明からくるものは醜悪さだけ,らしい.情報科学技術で碌でもないことを考えて,「どうだ,すごいだろう」というのは,恐らく無明なんじゃないかと思うこの頃です.

 

 いつか,計算機で人の心を「操作」できるようになるでしょう.そんな日が来てしまったとき,僕はもう一つの計算機の使い方を残しておけたらいいなと思っています.芸術的側面です.「こんなことができる計算機で,人の心を操作するのはやめよう」と思わせることが出来ればなと,思っています.

 

 やっぱり僕は,駄目みたいです.

 

*1:2F=0.032秒