厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

 自分のことが好きな自分が嫌いだから何度も何度も殺そうとしてみたのに,自分のことが好きな自分は,姿かたちを変えていきはするものの,どうしても殺せなかった.

 

 死ねと自分に言い聞かせてみても,それはできないようにできているようで,どうにもならなかった.

 

 優しいね,と言われることはいっぱいあったけれど,全部,優しいねと言われたくてしたことなら,みんなそんな偽物の優しさはいらないのかもしれない.

 

 人のことを考えていても,結局すべて自分のことしか考えてないのだとしたら怖い.

 

 人のことを考えられる人が世の中に存在するかしないかなんて考え始める始末,あるのは,自分が人のことを考えられないかもしれないという疑問なのに,どうしてそこから逃げて,他人のことを話して言い訳しようとしてしまうのだろう,逃げてはいけない,これが自分のことしか考えていない何よりの証拠なのかもしれない.

 

 今のこれも,自分のことしか考えられないことを理解しているふりにしかすぎず,本当の所は何も理解していないのかもしれない.

 

 後悔を繰り返して,ひとつだけ自覚したことがある.

 

 自分は,抑圧されることに極端に弱い,幼稚な言い方をすれば,我慢が出来ない.

 

 ただ,我慢ができないとき,その行動をそのまま行うほど愚かではない,それができる環境作りを試みてしまう.

 

 環境が自分に適さないのであれば,自分に適するように環境を整えるように作り替えようとしてしまう,大規模な室内構成変化をたびたびやってしまうのは,そのせいだと思う.

 

 これがもしかしたら,人間関係においても出てしまっているのかもしれない,他人を巻き込んでしまっているのかもしれない.

 

 抑圧されないような環境のために,相手に抑圧を強いてしまう,といった甘えがあるのだと思う,ある抑圧と引き換えに別の抑圧からの解放を望んでしまう,といった甘えもあるかもしれない.

 

 一緒にいられない,と言われることがたびたびあったけれども,あれは全て,僕の方に原因があったのかもしれない,こんなことを暴露すれば,面倒な僕と仲良くしてくれる人も減ってしまうかもしれないが,それでも僕は敢えてこのことを晒しておく.

 

 僕は,誰かと一緒にいるには適さない人間であることを自覚して,ずっと一人で暮らしているのが,一番人のためになるのかもしれないと思うと,涙が出てくる,私もそんなことないよ,と言われたかった.

 

 人には向き不向きがあって,人のために何かするのに向いてない人種なのかもしれない,これだけ他人が喜ぶ顔がみたいと思っていても,結局はメサコンと同質の人間なのかもしれない,そんなことないよ,と言われたかった.

 

 どうすれば治りますか,治り方を教えてください,宗教的なやり方は駄目です,実を伴うような意識改革のための手順を教えてください,何かをするたびに,それらがすべて逆効果になってしまうのがつらいです,もう今のままじゃ嫌なんです.

 

 しかし,信念を棄てる方法でしかそれが完治しないのであれば,私は信念を選ぶ.

 

 治り方がないなら,僕は自分のこの絶望を掌握するよう努め,節度を保って人と接するように改めます.