厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

少年は空を辿る

「いつも,いつまでも,見守っているよ.」

 

 床の上に転がったまま放置されているクレヨンを手に取ろうとした瞬間,懐かしい声が聴こえた―ような気がした.もちろんそれは幻聴だったが,目まぐるしく変化する拍子のなかに秘められた伝言を探り抜くときのように,神経に流れる電気信号の全てが第六感のために消費されていく.蜃気楼の向こう側から送り込まれている波形が,受信機と化した私の身体に絶えず浴びせられている.こんな馬鹿げたことを考えるようになってから,七年が経った.

 

「街には意識がある.暴風雨に叩きつけられながらも,予期せぬ飛来物の接近を待ち遠しく感じているんだ.そいつが今まで溜め込んできたものを全て消してくれたら,僕も僕をやめることができるのに,と話してくれるときがあるんだよ.君はどうかな.君を君たらしめる思惑が全て消えてしまったら,そのときは自分をやめたくなるのかい.」

 些細な動作にさえ,軽やかかつ情熱的で,そして希薄な音色が付随してしまう彼特有の性質を,私は好んでいる.不特定多数の歩行者の足音に埋もれてしまうような,しかしどこかあたたかみのある生活音.何も答えずに隣をゆらゆら歩いていると,今度はこんなことを話し始めた.

「今日の空を見てごらん,あれは叢雲と言うんだ.クモがムラがっているからムラクモ.群がっているのは雲だけではなさそうだけれども.彼らはいつも,病的な想像力が現実を見る目を曇らせるとか口酸っぱく言い続けているけれど,自分自身が曇りの元,雲でないと言い切れるのだろうかね.」

 E.T.A.ホフマンの砂男で口元を隠しながら,瞳で笑っている.あの薄い文庫本が彼にとっての拡声器なのかもしれない.増幅された現実遊離感に溺れた少年,オーバードライバー…しかし,短絡しかけの思考回路が時折見せる強烈な煌めきに心から惹かれていた.

 

 ある日,独り言のように話し続ける彼の話を遮ってこんな会話をした.

「なんだか,あなたが近いうちに消えてしまいそうな気がしてしょうがないの.」

「君は僕に消えてほしいと思っているのかい.」

「そんなこと…」

 すぐには否定しきれなかった.空想の眼鏡をかける彼の,より度数の強いレンズ越しに見る世界の話を聞くのが,私は内心楽しみであった.と,同時にそれを打ち明けることが,彼の空想癖の加速に繋がるのは明白であったから,自身の罪を告白する罪人の如き後悔の念を抱きながらしばらくの間黙り込んでしまった.口籠りながら思案する私を,全てを理解した微笑みで包み込む.今でも,あの瞬間の彼の,多幸感でいっぱいの表情を思い描ききることができると思う.この日を境に,彼は夜の横断歩道の縞模様や幼少期によく遊んだ公園の遊具の向こう側に消えてしまった.