厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

追想:解析学

 心理的危機である自己同一性拡散の問題への対処として,分裂した自己を拾い集める目的で,過去の楽しかった記憶について,適宜日記形式で記述していこうと思う.私は一体誰であったのか,本当は何をしていたのか.それらの記憶から,帰納的に,可能ならば演繹的に統一された自己を導き,ゆくゆくは未在の土地を開拓することまで目標とする.

 

 講義開始5分後の教室.事故を起こした交差点を前にして,誰もがその惨事に触れず,お互いの世間話に夢中になっている.紙を捲る音からは,戸惑いや探求心などは微塵も感じられず,手遊びの延長でつい開いてしまった,という感じだ.間も無く10分が経とうとしているところで,ようやく教卓の前に教授が辿り着いた.

 

 何だか随分と哲学的な内容から導入したような記憶があるが,正確には思い出せない.たぶん,数の公理の話から始まったのだと思う.あくまで解析学の講義であるから,集合論の話はしていないと思う.しかし,順序構造,代数構造,位相構造,測度構造について触れていた記憶はある.私たちは数学科の人間じゃないから,誰も興味を持っていないように見えた.教授の不思議な雰囲気に惹かれて教卓の前を陣取った私と私の友人を除いて.

 

「…有理数と実数のどちらにも稠密性という性質があるのですが,これはまあ,任意の二点の間にはびっしりと点が詰まっているというイメージです.整数には稠密性はありません.例えば0と1の間から整数を取り出すことはできませんからね.この意味で整数と有理数は区別できることが分かりました.では有理数と実数の間には,どのような違いがあるのでしょう.ああ,今話していることは教科書にも書いてあることですから,無理にメモしなくても大丈夫ですよ.…なんでしょうね,有理数と実数の間には,それはそれは大きな隔たりがありまして,有理数までの数は人間的,実数というのは天上の世界の数で,人間には扱いきれない代物という感じがしますね.鍵になるのは"連続性"という概念ですね.有理数と実数を並べて一つの直線を作ると,先ほど紹介した稠密性のことから繋がって見えるわけですが,デデキント先生の話だと有理数は切られても痛むことがないらしいのです.一方,実数は切られると痛むらしいのです.つまり,有理数は繋がっているように見えて穴だらけなんですね.有理数でない点のことを無理数と言いますから…この無理数というのもあまり適切な訳とは言えないのかもしれませんね,分数で表すことが無理な数を無理数なんて言うわけですが,それなら無比数と言うべきなのかもしれません.まぁ,ここでは無理数と呼びましょうか.ここで次のような関数を考えてみましょう.xが有理数のときに値1をとり,xが無理数のときに値0をとるような関数をf(x)とする.ちょっとこのグラフを描いてみましょうか.y=1とy=0のところに点がいっぱい並びますね.ここでこの関数を0から1の範囲での積分を考えましょう.なんとなく…ですが,繋がって見えるので積分の値は1になりそうですね.しかしこの大学に入学してくるような優秀な生徒からは,次のように突っ込まれるんですね.そもそも積分被積分関数が連続でなければ考えることが出来ないのではないのかと.そう習った人もいるかもしれませんね,この関数はディリクレの関数と呼ばれる関数で,至る所不連続であることが知られています.ただし,被積分関数が連続であることは,その関数が積分可能であることの十分条件ではありますが,実は必要条件ではありません.積分が可能であることの定義は…今日はこのぐらいにしておきましょうかね,次回は積分の定義の話を簡単に紹介しましょう.これも厳密に議論しようとすると大変なのですが,あなた方は数学を使う立場なのですから,論理的に追求しなくてもいいんです.忘れてしまっても,構わないんです.」

 

 解析学の講義は,白髪で,愛嬌のあるおじいちゃん先生が担当していた.日頃,何を考えているのかよく分からない,話も難しくてよく分からないと,生徒からの評判は悪かったが,私は彼の語調や風貌に惹かれていた.波打ち際で,水平線を眺めているような気分だった.