厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

煙草

 積み重ねてきた楽しい瞬間も,季節の変わり目を知らせる風を受けて散り散りになってしまった.素直な感情を書き連ねたA4の紙の束が,僕の空を埋め尽くすことは,もうない.けれど,夜空に浮かぶ星々や月を見るたびに,僕の前に小さな白い紙きれが降り注いできて,そこに行き場を失った感情を綴れと命令する声が聞こえてくるんだ.二度と振り返らないと思えば思うほど,その声は大きさを増す一方だった.とうとう僕はその声に抗えなくなり,誰も幸せにならない独白を,今ここに記し始めようとしている.それと,煙草のことを.

 

 記憶の海に漂流している感情は,もとの形のままに釣り上げられない.言語化の際に必ず一部欠けてしまう.何か昔のことを思い出すたびに「君は記憶を美化している」と言われていたけれど,もしそれが本当なら,きっとそれは欠けた感情を埋め合わせられるだけの言葉で当時感じた新鮮さを呼び起こそうとしていたからだと思う.忘却の過程で新たに形成された偽の記憶,だったのかもしれない.とはいえすぐにそうだと決めつけられない僕がいるのも確かで,過去のある時間に体験した事象と,その周辺事象を結び付けている紐の輝きを言葉に表し直すとき,嘘をついているとは思えないんだ.

 

 蓋をして見ないふりをするにはあまりにも多すぎる記憶が,ふっと蘇ってきて,そのたびに泣いてしまう.過去の上に落とした涙が思い出を滲ませていく.思い出は次第にその輪郭を失い,過去という大きな言葉の中に溶け込んで消えてしまう.喪失感.後に小さな解放感がやってきたけれど,心も体もすぐにはそれに追い付けなかった.最近になって漸くそれを受け入れられるようになって,久々に煙草を吸えるぐらいには精神的に落ち着いてきた.

 

 煙草を吸ったのは,今のところ人生で二回だけ.一本目はセブンスター.椎名林檎を教えてくれた人と一緒に初喫煙.吸い方が分からず,お互い咽たりしながら笑ったっけ.二本目はトレジャラー.最近友達になった人からの御裾分けで,一本だけ.高級感の漂う見た目で,ウイスキーで例えるならジャックダニエルというよりはジョニー・ウォーカーの黒,という印象.スモーキーの一撃.バランタインのバニラを思わせる甘みが好みの自分としては,合わないかもしれないと思いつつも,吹かしてみると口の中に甘みが広がってくるので驚いた.妙に気分が鎮まる,ずっとここに留まっていたいというような気持ちになり,改めて依存性の高い嗜好品なのだろうと感じた.

 

 すぱーっ.

 

 二本の煙草の煙が過去と現在とを繋いでくれたような錯覚.

『僕は嫌煙家が口にする"緩慢な自殺"という言葉が気に入っていた.』

 誰の台詞だっけ.よく分かっていて,知らないふりをする.でも煙草を吸っている人間の一部はきっと同じことを言うのだろうから,誰の言葉であってもいいような気がした.煙草を燃やすのに必要な酸素が誰のものでもあって,特定の誰かのものでないように,誰か一人が象徴的に用いられなくてもいいだろう.なんて言いながら,僕はバタイユの次の一文を引用してしまうのだけれど.

 

『喫煙する者は,周囲の事物と一体になる.空,雲,光などの事物と一体になるのだ.喫煙者がそのことを知っているかどうかは重要ではない.煙草をふかすことで,人は一瞬だけ,行動する必要性から解放される.喫煙することで,人は仕事をしながらでも〈生きる〉ことを味わうのである.口からゆるやかに漏れる煙は,人々の生活に,雲と同じような自由と怠惰をあたえるのだ.』

 浪費,蕩尽.無意味で不可解にも思える選択の中に,やはり僕は生の感触を実感しているのだと思う.それは魔術的な過程を経るかもしれない,不条理という形をもって現れるかもしれない.理性的でない僕を見て人は僕を「死んでいる」と揶揄するかもしれないが,僕からすれば,天気予報を覆すてるてる坊主の存在や,対称性に潜む輝きに魅力を感じないようなら「ただ生きているだけ」としか言えない.