厳密さに拘る癖に用語の無責任な用法を好み、感覚の庭を耕している

庭園

ここは慣習だけが取り残された街。
毎朝7時には規則を思い出させる鐘の音が波打つ。
その鐘には願いが込められていた。確かに、想いが、祈りが込められていた。
凝望を示す資料や文献はもうどこにも見当たらなかったが、音色はそれを主張し続ける。
ああ、もうそれで十分。
ノスタルジーが響き渡る。きっと一緒に泣いてくれるのは蒸気機関だけさ。
寂び付いた赤茶色の車輪がいまもどこかで煙草を吹かして笑っていることだろう。

 

風化した住宅街を形のない、言葉のない優しさが通り過ぎていく。
鐘を支えるのは技術者の卵たちが見様見真似で取り繕った自動機械。
それらは光に包み込まれた様々なものたちの影で作られていた。

 

一点の曇りもなく施しを、恵みを授け続ける人工の空。
ある日、贋の光が生命を溶かすようになった。
春の微風、蝉の鳴き声、浮かび上がる落ち葉、みんな雪みたいに溶け始めた。
四季のすべてが緩やかに影に変わり、夜と共に眠りにつく。
おやすみ、頑張ったね。

 

働き蟻のほとんどは、初日で影になってしまった。
8時。今は動かない防犯カメラが捉えた一瞬。
"Fiat lux!"
大自然の、たった一言の叫び声で浮き彫りになる慢心。
音もなく差し込み続けていた光が、けたたましい閃光に姿を変えた。
次々と横断歩道に斃れ込む生の証。イヤホン付きのカセットプレーヤーから漏れ出すビル・エヴァンス。人一人ぐらいなら庇えたかもしれない、買ったばかりのキャリーケース。未記入欄の目立つ街頭調査のアンケート用紙。
ニュース番組は、映画のワンシーンを繰返し流し続けていた。

 

夕陽は人影を風前の灯火に変えた。誰にも止められなかった。
日が沈むにつれて泣き出すように影を大きく広げるものたちよ、さあ今日はもう寝る時間だよ。
迫る夜は輪郭をそっと抱きかかえ、境界を奪い取り、すべてのつらさを拭い去ってくれた。
朝にはもう、影たちの揺らめきは消えていた。
何処にも見えなくなっていた。


大急ぎで街の中心に取り付けられた祈りの鐘。
優秀な働き蟻はみんな溶けてしまったから、残された者たちが絆創膏を貼らなければならなかった。
他の街との連絡はすべて遮断された。街の治療方法が確立するまでは悪性腫瘍のように扱われた。

 

日に日に閃光は暖かさを増し、擦れ切った中高生、無垢な小学生、何も知らない赤子にまで手を伸ばすようになった。
すべてを許してくれる暖かな光の影に、折り畳み傘を閉じる程度の倦怠感。


  しかしこの街に雨が降ることなんてないのだから、
    誰もそんな感覚を理解することはなかったよ。
  この街を冷たさが貫くことはなくなったのだから、
    存在しないものの話をしても仕方がなかった。

 

暖かな光、暖かな風…最後まで誰にも所有されなかった庭をめぐり続けている。
きっとこの鐘もいつかは止まってしまうのだろう。
涙を流すのを止めてしまうのだろう。
ただ一つの、切実な思いも優しさも、おもちゃ箱の奥から取り出されることはないのだろう。
もうここには何も残されていなかった。


ここは慣習だけが取り残された街。
毎朝7時には、誰かにとっての誰かを思い出させる鐘の音が波打つ。
その鐘には願いが込められていた。確かに、想いが、祈りが込められていた。
熱望を示す手紙や葉書はもうどこにも見当たらなかったが、音色はそれを主張し続ける。